≪紀行文≫ |
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~~~奥深き歴史の佐渡を訪ねて~~~ |
≪1日目≫
始発便が両津港に着くと老和尚が待つ正法寺へ直行しました。
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寺に代々伝わる寺宝の世阿弥座像、世阿弥が雨乞いの能に着けて舞ったという癋見(べしみ)面、惜しみない援助をしてくれた娘婿の金春善竹(こんぱるぜんちく)に宛てた真筆の感謝状をと次々出して見せてくれました。
最後は和尚さんを囲んで記念写真に納まりました。
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和尚さんに耳を傾けて
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世阿弥座像
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べしみ面は重要文化財 |
集合写真-正法寺和尚さんと(写:2317) |
隣村の順徳院ゆかりの黒木御所跡を訪ねました。青田に続く御所跡はひっそりと静かでした。
世阿弥配流の200年前、鎌倉時代初期の1221年に「承久の変」が起こりました。
王政復古を称えて鎌倉幕府打倒の院宣を発した後鳥羽上皇の朝廷軍が破れ、連座して順徳院が佐渡に遠流(おんる)された事件です。真野湾に上陸された順徳院は一時国分寺に逗留されたという記録を辿って国分寺跡に向かいました。夏草茂る広大な伽藍跡を皆で歩きました。苔むした茅葺の瑠璃堂の佇まいに往時を偲びました。
昼食の前後を挟んで順徳院を祀る真野宮と火葬塚跡を巡り、日野資朝(ひのすけとも)卿にゆかりの大膳神社と能舞台を訪ねました。 |

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大膳神社能舞台にて(写:2317)
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国分寺大伽藍跡を歩く(写:2317) |
真野御陵火葬塚跡にて(写:2317) |
承久の変から更に100年後、正中元年に起きた「正中の変」です。後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が事前に発覚して、首謀者として日野資朝卿が佐渡に配流されました。日野資朝卿は鎌倉幕府の命令で佐渡の地頭代本間氏により処刑されました。京に残された資朝卿の遺児阿新丸(くまわかまる)が京から一人で佐渡に渡り、親の仇(かたき)打ちをする壮絶な物語が「太平記」を典拠として残っています。かたき討ちを助けた山伏の「帥(そつ)の阿闍梨」の祈りによって熊野権現の霊験で順風が吹き無事都へ帰還する「檀風」として能にも取り上げられました。大膳神社には日野卿と帥の阿闍梨が祭神として祀られています。五重塔のある妙宣寺本堂で行われた供養能を午後2時から鑑賞しました。御囃子方の笛の音は澄み大鼓(おおかわ)小鼓(こかわ)に太鼓は響き、おシテの声はよく通って見応えのある能でした。
(俳句)笛方の一声(いっせい)涼し供養能(2011・Y/O)
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前座はいつも鷺流狂言
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猩々の舞美しき |
集合写真-五重塔前にて |
≪2日目≫
早朝の凪の海を遊船で海上から見た大ザレ滝は新鮮な感動でした。
朝食後出発して石名清水寺の木喰仏を拝観しました。黴の薬師如来坐像、地蔵菩薩像は元は檀特山の奥の院に安置されていたのを台風で清水寺に避難させたとか。
(俳句)波涼し第二豊漁丸楽し(A/S・体験参加)
(俳句)日本海佐渡島惜しむ夏の旅(S/A・体験参加)
(俳句)かはほりの住むとふ巌(いわを)夏の潮(E/I・体験参加)
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朝風が爽快です |

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見えた!幻の大滝
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カビの鉈彫り地蔵仏 |
千年の古刹清水寺 |
次に岩屋山の洞窟を訪ねました。木喰行者の冬場の修行地として代々利用された由で、壁面に彫られた「南無阿弥陀仏」の名号がくっきりと確認できました。 |

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潮鳴りが反響する大岩壁
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浄厳行者の六字名号 |
岩窟の行場にて
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真更川集落を経由して夏草蓬々の林道を走り、夏場の修行地で今は廃寺となった光明仏寺と山居池に上りました。山深い山居池はとても神秘的でした。山を下り大野亀を散策し、二つ亀でお弁当広げて午後ゆっくり帰路につきました。(おわり)
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(俳句)
車田の畦に薊(あざみ)の咲きゐたる
(2262・M/G)
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光明仏(弾誓上人)坐像・(奥) |
山居池は神秘を湛え |

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二ツ亀が美しい
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車田植えの青棚田 |
大野亀大明神は夏祭 |
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